土俵は女人禁制と言う事らしいが実は歴史上では違っていた?
2018年04月11日 [ 土俵 女人 歴史 禁制 ]春巡業で、
去る4月4日に京都・舞鶴市で
多々見良三市長が土俵でのあいさつ中に倒れ、
救命処置で駆け寄った
医療関係者の女性に対して、
土俵から下りるよう場内放送が流れた。
理由は土俵は神聖な場所で、
女人禁制と言う事らしいが、
日本の歴史上、
相撲が初めて記されているのは
「日本書紀」で
その中の記述は
「女相撲」
【原文】
(十二年)秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中石耶」眞根答曰「竟不誤矣」
乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、不覺手誤傷刃。【口語訳】
(雄略天皇12年の)秋の9月、木工職人の韋那部眞根(いなべのまね)が、石を台にして斧で木材を削っていた。一日中削っても、間違って斧を石の台にぶつけて刃をつぶす事はなかった。天皇がやってきて不思議に思って聞いた。「いつも間違って石にぶつける事はないのか」と眞根は答えた。「決して、誤ってぶつけることはありません」。そこで天皇は采女(うねめ。宮中の女官)を集め、着物を脱がせ、褌を締めさせ、みんなの前で相撲をとらせた。眞根は少し手を休め、それを横目で見ながら木材を削った。しかし相撲に気を取られて、間違って斧を台座の石にぶつけて、傷つけてしまった。
更にはこういう話も
■室町時代には尼僧が相撲興行で活躍?
『義残後覚』(16世紀成立)の中では、
「比丘尼相撲の事」
という項目で、
室町時代の女性力士が紹介されている。
そこには、
勧進相撲(営利目的の興行相撲。大相撲の源流とされる)に
「比丘尼(びくに。尼僧)」
が出場していたことが記されていた。
■江戸時代には「女性観戦禁止」でも、女相撲があった
江戸時代では、
1781(天明元)年以降に
両国・回向院の境内で勧進相撲が開かれた
とされ、
これが現在の「大相撲」の起源とされています。
1909(明治42)年、旧両国国技館が建てられました。
江戸時代は
原則として女性の相撲観戦が禁じられ、
許されても千秋楽のみだったといいますが、
『江戸繁昌記』(1831年刊)
などによると、
当時の相撲では
頭に血が上った相撲ファンが
頻繁に乱闘騒ぎを起こしていたことが伺えます。
一方で、この頃は
女性が参加する見世物的な相撲や、
女性同士が相撲を取る
「女相撲」
もおこなわれています。
「女相撲」
は戦前まで全国巡業もあったほどで、
東北や九州では
今なお祭礼行事として残っている場所もあります。
長らく禁じられていた
女性の相撲観戦が許されたのは、
1872(明治5)年だとされていますが、
それは明治維新と文明開化の流れの中、
次第に相撲人気が下火になったこの時期、
当時の相撲関係者が
元土佐藩主・山内容堂に相談。
これに対し山内は、
女性への相撲観覧の解禁を説いたと伝えられています
(朝日新聞2000年2月13日朝刊)。
1884年3月には
明治天皇の臨席の天覧相撲が開かれ、
やがて相撲は「国技」としての地位を得たのですが、
相撲が国技となったこと自体
その歴史は意外と浅いと言えます。
しかも
「『相撲は神道との関わりがあるから女性を排除する』
というような論理は、
明治以降に相撲界の企図によって
虚構されたものであると考えられる
(参考:吉崎祥司、稲野一彦 北海道教育大学紀要、
人文科学・社会科学編 59(1):71-86)」
という意見もあります。
今回の救命処置をめぐるアナウンス問題は、
相撲と女性をめぐる
過去の問題提起を思い出させることになった。
いつかこの国に女性の首相が誕生したら、
誰が優勝力士に内閣総理大臣杯を授与するのだろうか?
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